證誠寺の歴史

 江戸時代の初期(17世紀中頃)に證誠寺は誕生しました。初代住職の了念は、実弟と共に鎌倉より川﨑を経て陸路当地に到着、この矢那川河口の地を選び、この地域に初めての浄土真宗のお寺を建てました。当時この辺りは街はずれで、樹木がうっそうと繁り、寂しい海岸だったとのことです。その頃の木更津は、徳川幕府の庇護のもと、木更津船が頻繁に発着する房総半島最大の港町として発展し、多くの商人が全国から集まってきたようです。その中の真宗門徒の人たちが次々に当寺の門徒となり、本堂後方にお墓を建てました。それらの墓石には、その時期や出身地が彫られており、今や歴史的に貴重な資料となっています。
 江戸時代の当寺は寺子屋で、大人も子供も大勢が勉強に来ていたようです。師匠であった住職を偲んで生徒である筆子達が建てた筆小塚が、境内にひっそりと建っています。また、五昼夜連続の雅楽演奏による音楽法要が行われるなど、地域の人たちに大変なじまれ、心のより所になっていたものと思われます。
 当寺には、開基間もない頃から狸ばやしの伝説があります。萩や薄の咲き乱れる境内で、中秋の名月に照らされながら、住職と大小百匹ばかりの狸が一緒に、「證誠院のペンペコペン、己等(おいら)の友だちゃドンドコドン」と歌いつつ、幾晩も楽しく踊ったと伝えられています。

中山晋平三島一正

狸ばやしについて

 明治38年、当寺門徒の松本斗吟氏が地元の郷土史『君不去』に狸ばやしの伝説を紹介、大正時代に当地へ講演に訪れた野口雨情先生がそれをもとに作詞、中山晋平先生が作曲し、昭和の初めに大ヒットしたのが、童謡「証城寺の狸ばやし」です。
 童謡「証城寺の狸ばやし」が大ヒットしたことを記念して、昭和4年に狸塚が、昭和31年に童謡碑が建てられました。